人は人、俺は俺様
- 林幸一郎
- 2021年5月28日
- 読了時間: 6分
更新日:2024年10月6日
〜他人と自分を比べてもきりが無いが、自分史上最高を目指してもいつか老いる〜

先日知人から、「SNSで他人の投稿を見ているとキラキラしすぎていて劣等感を感じてしまう」という話をされました。
確かに、美術館の壁に飾られた作品を見比べるように、他人の輝いている写真と現実の自分を見比べると嫌になります。
それに対して「投稿している人も人生の中で一番いいところを投稿しているわけで、それを見て自分が劣っているとは思わないほうが良いよね。」とか、「そもそも他人と自分を比べてもきりがないから過去の自分より成長することだけに集中しようよ。」「過去一の自分になれればそれで良しとしよう。」とかよくある話をしました。
数日してふと、「過去の自分より成長することに集中して自分史上最高になっても、いつかは老いて衰えるよな?」と疑問を持ちました。
今日はこの問いについて4段階で考えてみました。
1.他人と比べることについて
この世には自分より、優れていて、性格が良くて、人望があり、強く、美しい人がたくさんいる。
人と優劣を比べると際限ない自己否定になる。
私自信も一番優秀な中小企業診断士だとは思っていないし、なれるとも思っていない。
「よそはよそ、ウチはウチ」
「人は人、自分は自分」
そう思えば良いとわかっているけど、どこか虚しさも感じる。
他人には敵わないというあきらめが入っている感じがする。
子供時代、ゲーム機を買ってほしいときに親から言われたからか?
「〇〇ちゃんのうちはお金持ちだけどウチは・・・」という感じ。
他人と自分を比べることからは離れることができるけど、負けを認めて卑屈な感じもする。
2.過去の自分と比べることについて
比べるとしたら、他人でなく過去の自分のほうが良い。
自分は過去に比べてより良くなっているとか、より役に立つ人間になっているとか。
自分の限られた才能と時間を使って人生を味わい尽くす、ことに集中する方が充実するし、そんな生き方のほうが魅力的だと思う。
広い宇宙の点のような小さな存在の人間に、生まれ持って与えられた運命や使命などない。有るとしたら自分の心のなかに使命を創って信じ、それに向かって成長するしかない。と思う。
トレーニングや格闘技は自分と向き合える点が好きだ。
自分より強い人はいくらでもいる。しかしそんな事は忘れて過去の自分より強く、速く、巧くなれるかに向き合うことができる。
しかし、いくら自己研鑽に励んでも、いつか過去の自分を超えられなくなる。
すでに私も肉体的には過去の自分を超えられなくなってきている。
心肺機能や回復力は20歳台より確実に衰えている。
いつか知力面でも衰え、思い出せない、計算できない、早い会話についていけない、という日が訪れるだろう。
知力体力の総合面では今が自分史上最高に充実していると思っている。これからもっと高めたいと思って自分なりに努力している。
しかし一生かけても世界一にはなれないし、いつか衰える。
3.いつか来る老いと死にどう向き合うか
しようがない。この言葉は外国語に翻訳するのが難しいそうだ。
しようがないとする文化が日本のイノベーションを阻害しているという意見もある。
勝てそうになければルールそのものを変えてしまおう、と考えて実行する国から見ると弱々しいことこの上ないだろう。
たしかに解決できる課題を「しようがない」といって取り組まないのは問題だ。
でも、変えられないことは受け入れるしかない。
老いは多少抗うことはできても、なくすことはできない。
まさに、しようがない。
4.本当に人間は死ぬまで成長できのか?
「しようがない」とはわかっているけど、自分は老いを受け入れることができるだろうか?
老いもそうだが、死はもっと受け入れるのが難しそうだ。
できるかわからない。
?ちょっと待て?できるかわからないということは、将来できるようになる可能性があるということか?
できるかわからないというのは成長の余地があるということか?
老いや死に対する覚悟ができることが精神的な成長だと考えると、一生成長できる、自分史上最高を追求することは死ぬまでできる、ということになる。
という訳で誠に勝手ながら私の結論としては、「結局人間死ぬまで自分史上最高を目指せるんじゃね?」となりました。
そして、私の座右の銘は
人は人、俺は俺様
となりました。
つまり、人と自分を比べることで無駄に疲弊せず、自分を大切に扱って、自分の成長に集中しよう、という考え方です。
ただし、他人との関係性を完全に忘れるということはできないし、そんなことをしたら社会的な存在でなくなってしまう。
また自分が提供できる独自の価値というのは自分と対話するだけではわからない。他人と比べてはじめて分かる。
人は他人との関係性の中でしか自我を認識できない相対的な存在だから。
このことを近代哲学者の和辻哲郎は「人間=じんかん」と表現したようだ。
頭の良い人は本当に頭が良いな、自分と比べると嫌になる、俺なんて頭がわるくて・・・・、あぁまた他人と自分を比べてしまった。
経営戦略においては、市場調査や競合比較をせずに勝手な思い込みで自社の強みやセールスポイントを定義するは危険で傲慢だ。
マーケティングでは特定のカテゴリーで1番になると顧客から見たときの価値が増大する。
このように、他社との関係性の中で自分の存在を認識することは大切だ。当然に他者(他社)と自分(自社)を比べることになる。
ただ、ずっと比べ続けて悩む必要はない。
限られた時間内で客観的に冷静に自己分析をして、その後は自己の成長に集中すれば良い。
こんなことを一人で考えている自分って他人から見たら変わっているだろうなー、という自覚があります。
思えば僕は学校という環境にいつも違和感を覚えていました。
会社で皆同じスーツを着て皆同じ時間に連れ添って同じ食堂に行き・・というのも窮屈でした。
とくに体育祭の練習や集団行動が嫌いでよく欠席しました。不良とかかっこいい感じでなくただ欠席して寝たり本を読んだりしていました。
学校も勉強も嫌いでした。好きになったのは大人になって自分のペースで勉強できるようになってからです。生きていくために必要に迫られたのもありますが。
自分のように組織の中で違和感を感じているけど、フリーランスになったり、起業すると個性や才能が発揮できるという人は日本中に一定数いるはずだ。
そんな人が活躍できるような存在になりたい。
給料が我慢料でないと感じる人を増やしたい。
僕の場合、今の仕事は自分の貢献意欲や価値観に従って動くことができるので幸福度が上がっています。
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